付録8. 進化生物学・進化人類学・進化心理学
第14章 人間──II 社会性の補足
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人間の心/脳の適応を作り上げるわたしたちの能力に関して、もっと謙虚に考えたほうがよいという忠告は「進化心理学者」と自称する者たちに無視された
彼らはまったく躊躇することなく、主流の進化生物学的な基準からすれば脆弱な証拠でしかないものに基づいて、ありとあらゆる人間の認知的な適応を証明できたと主張している
しかし、進化心理学は、主流の進化生物学の枠組みの外で生まれ育ってきたものなのである
進化心理学は、信憑性を失った行動主義の枠組みに取って代わる、統一的で堅固な枠組みを探し求める心理学者達が発展させてきた
これはToobyとCosmidesが広めたサンタバーバラ学派の進化心理学、つまり、括弧付きの「進化心理学」のことである。未来の進化心理学はこのような欠陥に縛られる必要はない
そんなわけで、当然ながら進化心理学の「進化」は非常に底が浅い(Buller, 2005: Richardson, 2007: Francis, 2004; Lloyd & Feldman, 2002; Bomuis et al., 2011)
たとえば、進化心理学の開始よりも前に、主流の進化生物学では発生学が絡む展開が起こっていたのに、進化心理学者たちはそれを十分に認めていない
進化心理学者がゲノムの証拠を持ち出すのはきわめて限られている
また、系統再構成のための方法論やツールがますます洗練されていっているというのに、それにはまったく気がついていないようである
この点で、進化心理学は進化人類学と著しく対象的な状況にある
進化人類学では、比較法を適用する際に必須のエヴォデヴォやゲノミクス、系統を再構成するテクニックがますます中心的になってきている(たとえばGunz, 2012; Giger et al., 2010; Kuhn, 2013を参照)
進化心理学の基本的な前提には、問題を抱えたものがいくつかある
その一つが「進化的適応環境(EEA)」というもの
人間の心は更新世における問題を解決するように進化したのであり、「進化的適応環境」とはそのような適応をもたらした環境のことである
人間は更新世の環境に適応した状態のままであり、環境の変化と進化にずれが生じてしまっている、そのため、人間の心は現代の環境からもたらされる問題にまだ対処できないでいるのだという(Barkow, Cosmides, & Tooby, 1992)
この過程には3つの問題点がある
方法論的なもの
EEAという仮定を立てたことにより、進化心理学は否定的な証拠を見ないですましているということ
あるデータがリバースエンジニアリングによる予測に合わなければ、それはEEAと現在の環境が食い違っているからだと説明し、その一方で、データが予測を支持するものであれば、それはこの2つの環境間に類似点が残っているからだと結論づける
EEAという仮定のおかげで、原則的に、進化心理学の大部分は経験主義的なアプローチを拒めるようになっている
あとの2つは事実に関するもの
一つはEEAとして提案されているのが更新世の環境だということ
更新世の環境は激しく変動したことで悪名高い(Loulergue et al., 2008; Martrat et al., 2007)
変動しまくる条件を平均化するなどどだい無理な話なのに、進化心理学では更新世の平均的な環境を求め、それに人間の心が適応したものとしている(Tooby & Cosmides, 2005)
もう一つは、更新性以降、人間はかなり進化したということ(Richerson, Boyd, & Henrich, 2010; Meisenberg, 2008. 歯のサイズの変化についてはLoring, Rosenberg, & Hunt, 1987を参照)
第15章 人新世で見てきたように、1万2000年前の農業革命以来、人間はかなりの進化を遂げている
人間の心/脳の進化が更新世の間に停止したと納得できるような証拠はない
進化心理学者たちは、進化生物学の膨大な文献のなかから入念に選り分けたものを用いて、独自の「教義」を作り出している(Cosmides & Tooby, 1997. 基本的なテキストで最も重要なものはWilliams, 1966(Adaptation & Natural Selection)である)
そうやって選びだした文献の一つであるジョージ・C・ウィリアムズの『適応と自然選択』では、適応(「〜を対象とする選択」による産物)は「厄介な」概念であると述べているが、進化心理学では、この中心教義をどういうわけか見逃してさえいる
進化心理学者たちによれば、ウィリアムズは群レベルの適応だけが厄介であると主張しているというが、 これは誤解である。ウィリアムズは群選択に関しては腹に一物あったのだが、ウィリアムズの主張する適応の厄介さという概念は、群選択だけに限ったものではなかったのである(Williams, 1966, 4を参照)。ウィリアムズはわたしの学位論文審査委員会のメンバーだった。当時、多くの社会生物学者が(今日の進化心理学者のように)ウィリアムズを守護聖人としていたので、1979年、この件について彼に尋ねてみたところ、ウィリアムズとしては群選択だけでなく全面的に適用するつもりで、適応は厄介な概念だと主張しているということだった。しかし、彼の行動にはこの主張を裏切るものもあった。 当時、ウィリアムズは「アメリカン・ナチュラリスト」誌の編集者だったのだが、社会生物学的傾向のある極端な適応主義者の一部がこの研究誌を根城とするようになったのは、ウィリアムズの責によるところが大きい
「厄介な」という語は科学論文ではあまり見かけるものではなく軽々しく用いたのではないはず
ウィリアムズが既に記述したような適応を用いた推論の障害に気づいていたのは明らかである
ウィリアムズが特に熱心に警戒していたのは、当時(1960年代)広く普及していた、群選択(群淘汰)による適応というお手軽な主張
ウィリアムズにとって適応とは、主張はやさしいが論証は困難なもの
その手の主張をしようとすれば、証明するという厄介な重荷がのしかかる
適応は最初から仮定すべきではないのは確かであるというのだ
進化心理学者は、ウィリアムズを崇拝する一方で、そのメッセージをどういうわけか無視した
それどころかまったく逆に(EEAでの推定上の条件から、リバースエンジニアリングした結果をもとにして)自分たちが判別できた認知的形質や行動的傾向(たとえば人間の好戦的傾向やレイプ、認知面で性差があると推定されることなど)が適応的であると推定している
ウィリアムズが特にターゲットとしたのはWynne-Edwards(たとえば, Wynne-Edwards, 1963, Wynne-Edwards, 1978)である
進化心理学は、進化生物学で推論する際の標準的な基準に縛られていないため、グールドとルウォンティンがラドヤード・キップリングの有名な作品になぞらえて「なぜなぜ物語」と呼んだようなものになりがち(Gould & Lewontin, 1979)
進化心理学が作り出した「なぜなぜ物語」のなかでも言語道断なものとして、人間の性差に関するものがある
よくある進化心理学的なお話では男女の差が強調され、男性と女性は異なる種に属しているとまで思わせられる
しかし、第13章 人間──I 進化で見たように、ヒト科の系統では、性差(性的二型)は明らかに減少している
300万年頃前からすでにその傾向が見らられる
哺乳類の標準絡みても、霊長類の標準やヒト科の標準から考えても、人間の性差はかなり小さいほうなのだ
この事実は、自己家畜化仮説とは矛盾しないが、自己家畜化仮説の決定的な証拠となるものではない
また、この事実は、心理学的性差を含め、人間の性差についての「適応主義者のロジック」に基づく憶測に飛びついてしまいがちな人に、待ったをかけるものである
進化心理学をベースとした、ヒトの性差に関する節操のない推察の例としてはGeary, 1995などが挙げられる